洲本市でリースバックを検討する際の情報まとめ

洲本市でリースバックを検討する際の情報まとめ

 洲本市は、兵庫県南部に位置する、淡路島の中部西から南東に貫く都市です。2022年5月1日時点での推計人口は4万486人、面積は182.38平方キロメートルで、595.99平方キロメートルの広さを誇る淡路島の約30.6%、県土の約2.2%を占めております。隣接している自治体には、南あわじ市や淡路市、海上で隣接している和歌山県和歌山市があります。都市のシンボルとして、市の木には松、市の鳥には千鳥、市の魚にはサワラ、市の花には水仙と菜の花が選ばれており、これらはいずれも2007年3月に選定されております。地形に関しては、標高448メートルである中央部の先山を中心にした山地が続き、その西側の五色地域にはなだらかな丘陵地帯が広がっており、農業用のため池が点在しております。反対の東側、洲本市街地には平野が広がり、島内でも有数の流域面積を誇る洲本川が大阪湾に注いでおります。 また、市域内には五色浜や三熊山など、豊かな自然環境が瀬戸内海国立公園の指定地域として維持されております。

 産業面においては、2015年10月1日時点での国税調査報告のデータによると、産業大分類別就業人口の総数がおよそ2万1092人。その中でも、第一次産業の人口が2418人で、その割合が11.5%、第二次産業の人口が4621人で、その割合が21.9%、第三次産業の人口が1万3748人で、その割合が65.2%でした。業種別で見ると、最も多かったのが医療・福祉で、その次が卸売業・小売業、さらに製造業、農業、宿泊業・飲食サービス業、建築業の順で多いです。特産品としては、ちりめんじゃこ・ミカン・タマネギなどが有名で、ノリ・ハマチなどの養殖も盛んに行われております。

引用:https://www.city.sumoto.lg.jp/uploaded/attachment/1451.pdf

 交通面に関しては、過去には淡路交通株式会社の路線バスである山手線が乗客数減少などにより1996年に廃止されるなど、公共交通機関の空白地帯が拡大したと言われております。現在は洲本バス停が中心駅としてJTB時刻表に記載され、遠方移動の際は主に高速バスや路線バスが多く利用されております。
 また、洲本市には数々の名所が存在します。次の項目ではそれらを紹介します。

洲本市の名所

 洲本市が誇る名所を2点紹介します。

(1)洲本市民広場

 洲本市民広場は、洲本市新都心ゾーンの中核を成す公園施設で、園内には近代化産業遺産に認定されている、近代日本における有数の紡績工場であった旧鐘紡洲本工場の赤レンガ建築群が遺されており、レストランや図書館などの施設として再生されております。

(2)洲本市立淡路文化史料館

 洲本市立淡路文化史料館は、1982年8月に開業した、洲本城平城跡にある博物館です。淡路人形浄瑠璃などの淡路島の芸術文化や、淡路島の上古から近現代までの歴史を展示テーマとしており、 直原玉青記念美術館を併設しております。
 他にも、洲本市には洲本八幡神社など、歴史が深い施設が数多くあります。次の項目では、洲本市が歩んできた歴史について説明します。

洲本市が歩んできた歴史

 この地域では、縄文・弥生時代から人々が生活を営んでいたことが、武山遺跡をはじめとする数々の遺跡から分かっております。淡路島は、御食国(みけつくに)の一つとして、山海の幸を大和朝廷に献上する食材の宝庫として、また古くから四国と畿内を結ぶ交通の要衝として位置づけられておりました。由良においては、海路和歌山を経て、平安京に至る駅路の中継地として栄え、市内各地には駅馬が置かれました。

 平安時代後期以降は、多くの地域が荘園となり、貴族や寺社が領有するようになりました。その中で特に重要視されていたのが、石清水八幡宮領であった鳥飼荘で、石清水の別宮として鳥飼八幡宮が建てられました。

 室町時代末期に入ると、熊野水軍の安宅治興によって三熊山に洲本城が築かれました。淡路島に8ヶ所あった支城の一つで、大阪湾付近の要として築城されました。当時の洲本城は、石積みの石垣の城でなく、土塁や柵などで築かれた土の城だったと言われております。ここを拠点として安宅一門が権勢を誇りましたが、1564年、当時の城主の安宅冬康が、現在の大阪府四條畷市と大東市にあった飯盛山城(河内国)で、実兄の三好長慶に暗殺される事件などをきっかけに徐々に弱体化していきました。そして、1581年の織田信長による淡路国討伐の際、当時の城主であった安宅清康が、総大将の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に降伏し、淡路国の安宅氏は滅亡しました。1585年には、脇坂安治が洲本城の城主となり、そこから1609年までの24年間に渡り、洲本城の石垣の改修や、天守の造営に尽力しました。この脇坂安治による洲本城の改修は、現在の洲本城の姿に色濃く反映されております。

 江戸時代には、淡路国は阿波国とともに、徳島藩主蜂須賀氏の支配下となります。当初の淡路の政治を司る場所は由良城でしたが、蜂須賀氏家臣の稲田氏が洲本城に代々居城するようになり、島内の統治を行いました。それ以降、洲本が現在の洲本市域や淡路全域を支配する拠点となり、城下町が形成されました。一方、由良港は島内の海運業の中心地となり、江戸・大坂間の基幹航路の重要な寄港先として、西日本の海運ルートの中継点として栄えました。

 その後、1610年には池田忠雄が淡路国の領主となり、由良城に居住したことで洲本城は一時廃城となるのですが、1631〜1635年にかけて、由良の地が狭く、城下の経営もできないことを理由に、徳島藩の筆頭家老の稲田氏が由良城を廃城にし、洲本城に再び本拠を移転して、城下町を形成しました。この出来事は、「由良引け」と呼ばれており、以降は洲本が淡路の中心となりました。しかし、その後の明治維新により洲本城は廃城となりました。

 1871年11月15日には、淡路全島が名東県に編入され、その5日後の11月20日には、太政官布告により津名郡が兵庫県に編入されました。その5年後の1876年8月21日には、淡路全島が兵庫県に編入されました。1899年1月には、現在の市章となる町章が制定され、1940年2月11日に、市政が施行され、洲本町は兵庫県で6番目の市への昇格を果たしました。こうして、洲本市が誕生しました。

 このように歴史の深い、魅力溢れる洲本市ですが、「引越しをしたいから不動産の売却を検討している」という方々も中にはいらっしゃると思います。その方々のために、現在の不動産市場の様子を次の項目で説明します。

洲本市の不動産市場の動向

 洲本市の2022年時点での公示地価に関しては、1平方メートルあたり平均5万4200円、坪単価では1坪あたりおよそ17万9173円で、全国順位は379位です。前年からの変動率は−2.19%となっており、全国順位は1201位です。2021年での基準地価に関しては、1平方メートルあたりの平均が4万1525円、坪単価では1坪あたりおよそ13万7272円で、全国順位は443位です。前年からの変動率は−3.22%となっており、全国順位は1610位と、公示地価・基準地価のどちらも前年に比べて下落している、という結果になりました。エリア別で見ると、2021年時点での住宅地の1平方メートルあたりの平均地価はおよそ3万3877円、1坪あたりの坪単価は11万2024円で、前年からの変動率は−2.41%です。一方、商業地の2021年時点での1平方メートルあたりの平均地価は8万6700円、1坪あたりの坪単価は28万6611円で、前年からの変動率は−4.09%となり、住宅地・商業地のどちらも地価は下落している、という結果になりました。

 洲本市は、1985年には人口数がおよそ5万5000人に達していたのですが、それ以降は減少傾向で推移しており、2015年時点ではおよそ4万4000人、2019年時点ではおよそ4万2000人になってしまいました。近年の減少推移は多少緩やかにはなっているものの、減少が続いてしまっているのが事実です。そのことが不動産市場にも影響を与えております。人口が減少すれば、不動産の購買を検討する人の数が減り、その需要も減ります。それに伴い、不動産の地価が下がってしまっていると考えられます。2018年に推計された、国立社会保障・人口問題研究所の、日本の地域別将来推計人口の調査結果によると、2040年には3万人を下回ると言われており、さらに2060年には2万人をも下回ってしまうと推測されております。また、近年では不動産の金利も上昇傾向にあるため、この都市で不動産の売却を検討されている方々は、これ以上人口の減少や金利の上昇によって地価が下がってしまう前に、早めに行動に移すことをおすすめします。

まとめ

 洲本市は、友ヶ島水道に面する由良とともに、古くから港町として発達しており、現在では淡路島の経済・行政・交通の中心地となりました。また、中心市街は江戸時代初期から明治時代頃には、城下町や漁港として栄えておりました。そんな洲本市では、現在恵まれた自然や都市機能の集積を生かしながら、自然と人々が共生できる、健やかで安心できるまちづくりを目指しております。また、市の持つ地域資源を生かした交流を通して地域の活性化を図ることにより、誰もが一度は訪れて住んでみたいと思うような地域を目指すとともに、市民の一人一人が住むことに愛着と誇りを持つ「豊かな自然とやさしさあふれる暮らし共創都市・洲本」の実現を目指し、今後も尽力するでしょう。

 このように、洲本市には魅力が満載です。ぜひ一度暮らしてみてはいかがでしょうか。