大阪市浪速区の不動産売却/なんぱパークスやでんでんタウンで賑わう街

大阪市浪速区の概要

浪速区は大正14年4月に、南区(旧:中央)から分区によって創設されました。その後、昭和18年に南区・西区・西成区・天王寺区との間で区の境界を整備し、現在に至る区域となりました。区は4.39平方キロメートルの面積と、大阪市で最も小さい行政区ですが、大阪市のほぼ中央に位置し、和泉、堺、神戸、奈良、和歌山方面への交通路にあたるなど立地条件に恵まれています。このため、古くから中小企業の商工業地域として発達してきました。

浪速区は、長い歴史をもつ「でんでんタウン」、「大阪木津卸売市場」など市内でも有数の商業地域として発展してきました。また、大阪のシンボル「ジャンジャン横丁」・「通天閣」がある新世界など、昔ながらの町として親しまれています。
一方、地方都市や関西国際空港をつなぐ交通拠点と商業機能を持っている「OCAT」、「なんばパークス」、音楽ホール「なんばHatch」などから構成される「湊町リバープレイス」など、新たな商業スペースが整備され、賑わいがあります。
また、文化教育スポーツ施設、十日戎で賑わう今宮戎神社など由緒ある神社仏閣も多くあり、とても充実しています。今後は情報化・国際化に向けた魅力ある街の誕生とともに、これらに対応した都市環境整備が進められ、浪速区は大きく飛躍しようとしています。

大阪市天王寺区の基本情報

人口総数69,766人核家族世帯08,887世帯
15歳未満4,630人単独世帯34,417世帯
15~64歳48,428人高齢夫婦世帯1,483世帯
65歳以上12,738人高齢単身世帯5,303世帯
一般世帯47,440世帯外国人5,605人

公共施設や商業施設

大型小売店23店飲食店735店
百貨店1店公民館0館
小売店941店図書館1館

日本橋・難波エリアには多くの商業施設があり、区内で最大の商業施設なんばパークスや日本橋のでんでんタウンで、移住した際の家電から日用品まですべてそろえることができるでしょう。また、食材については木津卸売市場が地下鉄大国町駅からすぐの場所にあるので便利です。浪速区を代表するランドマーク通天閣がある新世界界隈でも安価な食材を含めた商品を買うことができます。

大阪府立体育館は大相撲春場所の会場として知られており、南海難波駅から歩いて約5分で行くことができます。南海難波駅から歩いて約08分ほどの場所にある大阪市立浪速図書館は7万冊以上を所蔵しています。人権に関する書物が豊富です。浪速区の公園としては、芦原公園が有名で地域住民の憩いの場となっています。浪速神社の中にある浪速公園がよく知られているところです。今宮戎神社は商売の神様として知られていて有名です。

福祉・医療施設

大型小売店23店飲食店735店
百貨店1店公民館0館
小売店941店図書館1館

行政サービスを統括する浪速区役所は、南海難波駅から歩いて約7分のところにあります。また、同区の治安を守っている浪速警察署は地下鉄堺筋線恵美須町駅から歩いて約3分のところにあり、その近辺には浪速区最多規模の病床数を誇る愛染橋病院があります。

教育関係の施設

幼稚園3園高等学校1校
小学校6校大学等0校
中学校3校  

大阪市浪速区の特徴

道頓堀の南側に位置する浪速区ではありますが、JR難波駅の南エリアや、南海難波駅の南エリアなどは再開発によって高層マンションや大型商業施設が増えつつある一帯で、移住先としても人気があります。JR環状線、JR関西本線、阪神なんば線、近鉄難波線、南海高野線・本線、地下鉄御堂筋線、堺筋線、千日前線、四つ橋線が走り、大阪市中はもちろん、奈良や和歌山方面へのアクセスも良いことが特徴です。また、オタク系ショップと電気街が立ち並び「西のアキバ」とも呼ばれる日本橋(にっぽんばし)、通天閣でおなじみの新世界も浪速区にあり、個性の強い区域となっています。

浪速区の成り立ち(歴史)

昔々、上町台地すぐ西まで海があり、難波潟とか難波江と呼ばれていましたが、淀川と大和川の二大河川が運んできた土砂が浅瀬や洲をつくり、後に多くの島の意となった浪速八十島を形成しました。このように、当区の大半は、かつては海あるいは芦や葭の繁る地でした。

鎌倉期からは、古文書に木津、今宮の地名と集落がみられ、住民は漁業を中心に暮らしをしていました。今宮戎神社が漁労に従事した人々から始まった信仰といわれていますが、この時代の生活を形づくったものといえます。戦国期では、三好、細川両氏の軍事拠点として戦場となりました。石山合戦の時には織田勢の陣が配置されたり、本願寺の雑賀・根来衆の木津城が配置されたりしました。江戸期からは大きく発展し、大阪から紀州・堺街道が通じ街並みが形成されていき、なかでも今宮から日本橋、長町には商家、旅籠たちが並び、大阪の南側として大変な賑わいになっていました。また、生活物資の大量輸送手段は水運でした。木材を扱う問屋が軒を並べ、難波新川東側には難波新地の街が賑わいを見せており、農産物を活用している難波木津市場も陸路・水路の整備や人々の寄り合いによって成立したものと考えられています。

近代に入って1885年、わが国初の私鉄となった鉄道が大和川~難波間に開通、1889年には大阪鉄道が柏原~湊町間に開通、1900年に大阪高野鉄道が汐見橋(旧西道頓堀)~堺東間に開通し、短い間にに鉄道網の整備が発展しました。
1903年に内国勧業博覧会が、新世界から茶臼山東にいたる場所で開催され、非常な活況を呈しました。明治時代から大正時代後期にかけて市電の設営が進み、商工業も交通手段が大きく発展し、現在の浪速区ができあがりました。そして、1925年4月1日大阪市の第2次市域拡張により浪速区になりました。
区名の決断には、いろいろな案が出ました。その昔、博士王仁(わに)が詠んだといわれる「浪速津に 咲くやこの花 冬ごもり 今ははるべと 咲くやこの花」 の古歌に区名を求めた結果、「浪速区」と命名されました。

まとめ

新しい住宅開発を象徴しているのが、浪速区域内にある大型商業施設、なんばパークス付近の高層マンションで、JR難波駅の湊町エリアにも高層マンションが増加しています。
大阪市の中では、地価が比較的安い浪速区は、外国人や若者層も多く住んでいます。近年は浪速西に分譲住宅地ができ、ファミリー層の引越しが人口増加の要因となっているようです。一方、日本橋エリアでは、単身者・独身者向けの賃貸マンションがそろっており、若者層が多く住んでいます。